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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 west[188]

投稿日:2013年6月17日

100万石の城下町

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 11月8日。夜が明けると金沢駅前の「東横イン」を出発。国道8号沿いの温泉施設「テルメ金沢」(入浴料1050円)へ。大浴場と露天風呂の湯につかる。早朝からけっこう多くの人たちが入っている。湯から上がると食堂でバイキングの朝食(1050円)。イカ刺、マグロ、サケ、干物、ソーセージ、ベーコン、サラダ、温泉卵とここぞとばかりに食べた。
 朝湯に入り、朝食を食べ終えたところで、スズキの125ccスクーター、アドレスV125Gを走らせての「金沢探訪」の開始だ。
 金沢の中心街を走りまわっていると、まさに「北国(ほっこく)」のオンパレード。北国銀行、北国住宅、北国広告‥‥など、あちこちで「北国」を見る。金沢市民の大半が読む新聞も「北国新聞」だ。
 電話ボックスの電話帳を見ると、「ほっこく」の項には、ズラズラと「北国」のついた社名がのっている。ところがが「きたぐに」では1社もなかった。金沢では「北国」はすべて「ほっこく」と読む。それを知ると、近江や信州の北国(ほっこく)街道が金沢に通じている街道であることがはっきりとわかってくる。
 金沢の中心街をひとまわりしたところで金沢城と兼六園を歩いた。。
 金沢は日本一の大藩、加賀100万石の城下町。江戸時代にはおおいなる繁栄を誇り、江戸、大坂、京都、名古屋に次ぐ大都市だった。
 金沢の町としての歴史は、文明3年(1471年)にさかのぼる。この地に御山御坊と呼ばれる一向宗の道場ができたのが町の始まりだ。次いで天正8年(1580年)の一向一揆討伐でこの地に入った信長の家臣の佐久間盛政が尾山城を築き、城下町の建設にとりかかり、城の西側に8つの町をつくった。それが「尾山八町」といって、金沢の最も古い町になっている。
 佐久間盛政は賎ヶ岳の戦いで柴田勝家側につき死んだ。
 そのあと豊臣秀吉側の前田利家が入城し、その名を尾山城から金沢城へと改めた。それ以降、明治になるまで金沢は前田家14代の治世となる。金沢という町は、前田家とは切っても切れない関係にある。
 前田利家は城づくりの名人として知られていた高山右近に命じ、本格的な築城をおこなった。ついで2代目の利長が大改修をおこない、3代目の利常の頃にはほぼ今日の金沢中心街の市街地が形成された。
 金沢城は犀川、浅野川の2本の川にはさまれた台地、小立野台の先端にある。この2本の川が天然の堀の役目を果たす要害の地である。
 金沢の町にはT字路やクランク型の鉤型路、袋小路が多くある。道幅も狭く、少しづつ曲がっている。迷路に迷い込んだようで、なんとも走りにくい。また、犀川と浅野川を越えた城下町の外郭部には寺院を集め、寺町をつくった。この寺町には城下町防衛の前線的な機能を持たせていた。このように金沢という町は敵の進入を想定してつくられた戦略本位の城下町なのである。
 北陸を貫く北国街道は犀川を渡って城下に入り、片町、香林坊、武蔵辻と通り、橋場町で浅野川を渡って城下を出ていく。この北国街道に沿って商人町をつくり、裏町には職人町をつくった。明治以降、金沢には大火もなく、戦災にもあっていないので、藩政時代の典型的な城下町の姿が現在までよく残されている。町全体が博物館といってもいいような金沢。アドレスで金沢の町をひとまわりすると、それがよくわかる。

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「テルメ金沢」
「テルメ金沢」の朝食


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金沢城の石川門
金沢城の石垣


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